菊一文字の和鋏
「手先が器用だ」「器用でない」という形容詞が会話の中でよく使われる。
器用かどうかでいったら私など不器用も甚だしく、
なぜ自分がこうして手を使う仕事をしているのかある人々から見たら失笑ものであろう。
だが言い切ると、ただなぜか続けていられるからである。
「自分は不器用だから」と躊躇ったり
「不器用なんだから」と他人に言われたり
「器用でいいね」と誰かを簡単に褒めたり。
器用ということばはとかく引っかかる。
器用貧乏、という言葉もある。
新明解四字熟語辞典によれば「なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと。また、器用なために他人から便利がられてこき使われ、自分ではいっこうに大成しないこと。」だそうだ。
結局器用、というのは便利、と同じ扱いなのではないか。
器用さなどぶっとばしたらよい、と思う。
手先の器用さよりも繰り返しと慣れと継続だろう。
不得手なことも必要にかられ繰り返しやっていれば上手になっていく。
不得手なことを一度もやる機会がないのは器用さと関係がないし
不得手なことを繰り返したくないのは器用さとは別の問題だ。
続けられさえすればそれなりになっていく。というのが四十を超えての印象だ。
様々な理由が先にあがり、続けられないものは難しい。それだけのことではないか。
不器用だとて心地よく続けるために道具に力を借りることもできる。
帽子の製作を続けよう、と思った時に
いい道具を使おうと意識して購入した唯一の道具が、
この和鋏である。
京都の刃物屋さん、菊一文字のもの。
七百年余り前から日本刀に始まって
明治以降は日常の刃物を作り続けてきた老舗である。
仕事で京都を訪れた折に目指していってえいやと購入した。
通常の糸切り鋏の十倍の値段がしたろうか。
手にすっぽりとおさまる大きさで
握るとシャキリ、シャキリ、と毎度なんともよい音がする。
使い始めて十年近く経つが未だ切れ味は鈍らず
刃の先も根元でも細い糸も太い糸もスパンと一回で切る。
刺さるほどに鋭い先端は縫い直しで糸を解かねばならない時に
布を切ることなく糸だけを掴んでくれる。
作業中、この鋏の行方見失うと心の平安が乱れる。
ただ糸を切る、その行為だけでも他の鋏を使うことを
躊躇うほどにこの鋏を頼りにしているのだ。
前職場ですぐ手元にあった鋏(これではなかったが)を使って
硬いものをこじ開けようとした時に
「道具を大事にしなさい」と師匠から喝が飛んだ。
不器用であるならばせめて道具を自分の手とし指として
大切に扱わねば、ものも呆れて応えてはくれないだろう。
この鋏もいずれ手放す、そのことを思って今胸が締め付けられた。
いつかわからぬが京都へ訪れた折にきっと研ぎにだそう。
そのことを思って今はワクワクしていよう。
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